浅草で どぜう(どじょう)を食べた。

どぜう鍋が昔から好き。ただ、どぜう鍋をこんなにも愛しているのは、どぜうそのものがものすごく好きだから、ではない。

広い座敷席でお酒を呑みながら鍋をつつく、あの雰囲気を愛している。他のテーブルでも、同じようにお客がお酒を呑みながら鍋をつついている。まだ空が明るいうちから座敷で呑むって素晴らしきぜいたく。

だから、テーブルと椅子の席の店では、どぜう鍋があっても注文しない。

うなぎは、座敷であってもテーブルと椅子の席であっても食べるのに、どぜう鍋だけは、どうしても座敷でないと食べる気にならない。私は「どぜう鍋」を愛しているのではなく、「座敷で食べるどぜう鍋」を愛している。

私たちは、料理そのものだけを食べているのではなく、食事のときの雰囲気全体を食べている。私にとってのどぜう鍋は、その最たる象徴だ。

先日旅したヨルダンで食べたホブスもムタッバルもタッブーレも、あの国で食べたからこそおいしかったのだと思う。日本で食べたら、あのおいしい思い出が色あせてしまう気がする。

おいしかったから、また食べよう、ではなく、おいしかったからこそ、食べないという選択もある。

(柏木智帆)